【カナタ電話第5巻第2号】

キーワード:正書法規定の矛盾点,発音通りに書くとは?,語法に合うように書くとは?

Q:(第5巻第2号:1995年夏)「ハングル正書法」解説の第1項には「ハングル正書法は標準語を音のとおりに書き、語法に合うようにすることを原則とする」を説明して、音のとおりに書くことに、 「막-아 / 먹어」 , 「소-가 / 말-이」 などの異形態を例としてあげてありますが、漢字語「比率」を 「비률」 ではなく 「비율」 と書くことなどがむしろ適切な例ではありませんか?
A:まず、例が適切でないというご指摘には同感です。これを説明するために解説の部分を原文のまま書き写してみます。

しかし、この原則(語法に合うように書くこと)はすべての言語形式には適用できないので、形式形態素の場合は異形態を認定して、発音のとおりに書けるようにしたのである。たとえば、 「막-아 / 먹어」 , 「소-가 / 말-이」 などのように、音韻形態が顕著に異なったものを1種類の形態に統一することはできないからである。

 この上の部分の解説は、名詞 「」 が 꽃이 [꼬치]꽃나무 [꼰나무]꽃다발 [꼳따발] などと多様に発音され、形容詞 「늙다」 の 「늙-」 が 늙고 [늘꼬]늙지 [늑찌]늙는 [능는] などと多様に発音されても、実質形態素は本来の形を明確にして、 「」 と 「늙-」 と書くのであると言っています。
 上と比較してみると、「막-아 / 먹어」、「소-가 / 말-이」の場合はハングル正書法で音の通りに書くことの例というよりは、異形態は主に実質形態素ではなく形式形態素に表れるので、特に、語幹と体言の種類によりこれに続く語尾や助詞に異形態があるということを示す例として妥当であると思います。表記と音が一致しないときには語法に合わせて書くということと、音のとおりに書くということはお互いに矛盾した概念です。ところで上の解説で例としてあげたものは、語法に合わないので音のとおりに書くという場合ではありません。そして、また、異形態を1つに統一して書くということは、語法に合わせて書くということでもありません。
 ここに正しい解説をつけるならば、南北韓で正書法の違いを示す次のような例をあげるのがより適切のように思えます。

  南韓標準語   北韓文化語   発音
가. 비율(比率)     비률    [비율]
   효율(効率)     효률    [효율]
나. 냇가       내가    [내까/*낻까]
   뒷일      뒤일    [뒨닐/#뒨일]
다. 어금니(奥歯)   어금이   [어금니]
   아랫니(下の歯)  아래이   [아랜니]

 上の例を見ると、北韓文化語正書法では発音に大きな負担をかけても語法に合わせて書くことを原則としている反面、我が国の正書法では表記に負担をかけても音の通りに書くことを原則としているということが確認できます。上の例すべての発音は南と北がほとんど同じで、「냇가」の場合は南韓では[내까/낻까]が共に許容されるのに対し、北韓では[내까]だけが許容され、「뒷일」の場合は南韓では[뒨닐]、北韓では[뒨일]と発音されるという違いがあるだけです。この他にも本来の形からははずれるものの音の通りに書く場合は、南韓では頭韻法則に関連した単語がありえますが、あえて南北韓の例を比較してみるならば、南韓では「」と表記して[폐/페]と発音している漢字「廃、蔽、肺、閉、幣、陛」などを、北韓ではすべて「」と書き、書かれたとおりに発音することなどを例としてあげることができます。結論的に言ってみれば、音のとおりに書くものの例としては「막-아 / 먹어」、「소-가 / 말-이」より、上の韓国標準語の項の単語を列挙する方がより適切です。
 
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キーワード:正しい綴り字,-하게 마련이다-하기 마련이다

Q:(第5巻第2号:1995年夏)「-하게 마련이다」、「-하기 마련이다」(〜するものだ)は両方とも正しい表記ですか。そうでなければ、この中でどちらが正しい表記ですか。
A:結論から申し上げますと、大部分の辞書では2つとも正しい表記として扱われています。しかし、できれば「-하기 마련이다」をお使いになることをお勧めします。その理由は次のとおりです。
 「-게」は終結語尾として使われる場合とそうでない場合の2つの用法があります。終結語尾として使う例には「이 일은 자네가 맡게. この仕事はお前が引き受けろ。」、「그랬다가 꾸중은 누가 듣게. そんなことをして叱られるのは誰だと思ってるんだ。」「폐품을 모아서 무엇에 쓰게? 廃品を集めて何に使うつもりなんだ?」などを挙げることができます。ここでは終結語尾でない場合に限って述べてみます。
 終結語尾ではない場合の「-게」は、動詞に付くと「ある目標や行動の到達」を示し、形容詞に付くと「ある運動の様子(状態、性質)や基準」を示します。これは「-게」の次に来る動詞や形容詞が意味上これを支持することとも関連があります。「오게 하다 来させる」、「가게 되다 行くようになる」、「잘 자라게 거름을 주다 よく育つように肥料をやる」は前者の例で,「아름답게 핀 꽃 美しく咲いた花」、「맛있게 장만하다 おいしく準備する」、「눈부시게 희다 まばゆいばかりに白い」は後者の例です。そして、大部分の辞書では終結語尾ではない場合の「-게」は連結語尾「-도록」と用法が似ているとしていますが、これは「-게」の後に動詞や形容詞が来ることと直接関係しています。
 一方、「-기」は「이다」や動詞、形容詞の語幹について名詞形を作る転成語尾なので、「가기도 잘도 간다 スイスイ進む」、「일하기가 쉽다 仕事が容易だ」、「희기가 눈 같다 白さが雪のようだ」などのように使われます。この時の「-기」はすべて、体言のように使われ、助詞がついています。ところで、「-기」はこれ以外にも「名詞+이다」と一緒になって、あることを指定する機能をもっています。「-게」や「-도록」より「-기」に「名詞+이다」が付くほうがより自然でぴったりすることを例で示すと次のようになります。

ア.하기 나름이다 〜する次第だ  *하게 나름이다  *하도록 나름이다
イ.하기 때문이다 〜するからだ  *하게 때문이다  *하도록 때문이다
ウ.하기 십상(十常)이다 〜するのが好都合だ  *하게 십상이다  *하도록 십상이다
エ.하기 마련이다 〜するのが当然だ  ?하게 마련이다  ?하도록 마련이다

 上で「나름」と「때문」は依存名詞であり、「십상」は「십상팔구」(十常八九:十中八九、十のうち八つか九つ)の省略語であって普通名詞です。「마련」は普通名詞であると同時に依存名詞としても使われますが、普通名詞として使われるときは、「하다」がついて動詞「마련하다 準備する」という派生が可能です。上の「마련」はもちろん依存名詞として使われたものです。
 しかし、このような違いがあるにもかかわらず、上の例は「名詞+이다」の形を「-기」の後に使えば非常に自然な反面、これを「-게」や「-도록」の後に使うと不自然だということを示しています。これは前で述べたように「-게」や「-도록」の後に動詞や形容詞がついた「-게/-도록+用言」の形が、意味上、根本的に動詞の目標や状態の基準を示すという特性をもっている反面、「-기」の後へ名詞叙述語のついた「-기+(名詞+이다)」の形にはこのような意味はなく、単純に指定する役割をもっているためです。したがって、動作性や状態性を前提とする「-게/-도록」と単純に指定する機能をもつ「名詞+이다」とは互いにしっくりしないようになっています。
 このような特性を考慮して、辞書では両方とも可能であるとしているというものの、なるべくなら「-하기 마련이다」を使うことを勧めるのです。しかし、このような主張の妥当性を立証するためにはもっと多くの資料分析をしなければいけないのは勿論です。
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キーワード:正しい綴り字,否定の指定詞,아니에요아니예요

Q:(第5巻第2号:1995年夏)「그가 한 말은 사실이    彼が言ったことは事実ではない。」で下線を引いた部分に入る言葉は「아니에요」が正しいですか。「아니예요」が正しいですか。
A:아니에요」が正しいです。〈標準語規定〉26項では「-이에요」と「-이어요」を複数標準語と認定しています。これに対する伝統的な語法は「-이에요」のほうでしたが、光復(日本からの独立)後、小学校の国語教科書に「-이어요」の形が標準語として掲載されて以来、若年層では「-이어요」の形もかなりよく使われました。そして,1988年に告示された〈標準語規定〉では伝統語法を重視し、非標準語としてみなされてきた「-이에요」を復活させ、これを「-이어요」と一緒に、複数標準語として認定したのです。これは「-(으)세요」と「-(으)셔요」や、返答の「」と「」をいずれも複数標準語として認定したことと軌を一にする処理です。
 一方、「-이에요」と「-이어요」において、「-이-」は叙述格助詞「이다」であるため、「-이에요」と「-이어요」の前には体言が来ます。そこで、パッチムのある体言の後では下記の(1)のように「-이에요」または「-이어요」としてあらわれ、パッチムがない体言の後では下記の(2)のように「-예요」の形があらわれます。パッチムがない体言の後では伝統的に「-이에요」の形だけを認定し、それも「」と「」が縮約された「-예요」の形でのみ使われます。(すなわち、パッチムがない体言の後では複数標準語「-이에요」と「-이어요」を認定せず、「-이에요」が縮まった「-예요」だけを認定しています。)

(1)책+-이에요/이어요이에요/책이어요(パッチムがある体言の後)
(2)저+-이에요예요(パッチムがない体言の後)

 ところで、現代韓国語で「아니다」は体言ではなく用言(形容詞)なので、〈標準語規定〉26項に厳密にしたがえば、「-이에요」や「-이어요」をつけることはできません。しかし、下記(3)で見るように「아니다」は叙述格助詞「이다」と活用の様相がほとんど同じという点から「아니에요」や「아니어요」を認定できるようです。

(3)「이다」と「아니다」の活用の様相
ア.「-어서/-아서」形の代わりに「-라서」形が使われる:책이라서, 책이 아니라서
イ.「-는구나, -구나」形の代わりに「-로구나」形が使われる:책이로구나, 책이 아니로구나

 (3ア)は普通の用言の語幹であれば、「-어서/-아서」が来る場所に(例:어서, 좋아서)「-라서」が来る例で、(3イ)は普通の用言の語幹であれば、「-는구나/-구나」が来る場所に(例:는구나, 좋구나)「-로구나」が来る例です。これは叙述格助詞「이다」と形容詞「아니다」が語尾の活用では同様に行動するということを見せてくれます。(このように「이다」と「아니다」が同じ語尾活用をする理由は、由来的に「아니다」が「아니」という体言に叙述格助詞「이다」が結合して形成されたためです。)
 したがって、「아니다」は体言ではないものの、叙述格助詞「이다」と語尾の活用が同じだという事実に基づき、〈標準語規定〉26項を適用できるということです。この時には「-이에요」や「-이어요」から叙述格助詞「-이-」が落ちた「-에요」や「-어요」が結合します。下記(4)は「아니다」に〈標準語規定〉26項が適用された結果です。

(4)아니--에요/-어요아니에요/아니어요

 結局、私たちは〈標準語規定〉26項を多少修正したわけです。私たちは見解にしたがって、「-이에요」は叙述格助詞「-이-」と「-에요」として分析され、「-에요」は尊敬の語尾「-(으)시-」、叙述格助詞「이다」と「아니다」の語幹の後だけに結合し平叙や疑問をあらわす終結語尾になります。  一方、「아니에요」の代わりに、「아니예요」を標準語形として認定しようとする見解もあることはあります。この見解は下記の(5)と同じ結合過程を前提としています。

(5)아니-이에요아니예요아니예요

 すなわち、「아니」が昔は名詞として使われていた事実を踏まえ、現代国語でも「아니」が名詞として機能している例が化石のように残っていると見るのです。この見解に基づけば「아니」の後へ「-이에요」が来て、次に「-이에요」が「-예요」に縮んで(叙述格助詞の後に「」のような子音語尾が来ると、「철수이다/철수다」のように叙述格助詞が脱落することもあり、「에요」のように母音語尾が来ると、叙述格助詞が脱落せず、後ろに来る母音と縮約されることが一般的です。)「아니예요」になります。しかし、現代国語でも「아니」が名詞として機能しているという主張はこの根拠を見つけるのが難しいという点で受け入れられにくいものです。

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キーワード:正しい綴り字,내노라내로라

Q:(第5巻第2号:1995年夏)「_______ 하는 연예인 われこそはという芸能人」という表現で下線を引いた部分に入る言葉として「내노라」が正しいですか? 「내로라」が正しいですか? そしてこの言葉の意味はなんですか?
A:내로라」が正しいです。「내로라」は起源的に、代名詞「」に叙述格助詞「이-」と、主語が話者と一致するとき使われる先語末語尾「-오-」(しばしば意図法先語末語尾とか1人称先語末語尾と呼ばれたりします。),そして平叙形終結語尾「-다」が順に結合された形式です。これを式であらわすと次のようになります。

(1) 내로라: {나}+{이-}+{-오-}+{-다} → 나+이-+-로-+-라 → 내로라

 中世国語では「-오-」が叙述格助詞「이다」の後で「-로-」に変わり、平叙形終結語尾「-다」が先語末語尾「-오-」の後で「-라」に変わる現象があり、「{나}+{이-}+{-오-}+{-다}」は「내로라(<나+이-+-로-+-라)」という形で現れます。
 ところで、先語末語尾「-오-」の化石は現代国語にも残っています。「하노라고 한 것이 이 모양이다. やろうとしたのがこの有様だ。」の「-노라」がちょうどそれにあたります。「-노라」は現在時制を示す「-느-」に語尾「-오라」が結合したもので、このときの「-오라」は私たちが(1)で見たように先語末語尾「-오-」と平叙の終結語尾「-라」(「-다」は「-오-」の後で「-라」に変わる。)によって構成された形式です。
 このような私たちの論議は「-로라」の性格が「-오라」と同じだという主張として結論づけることができます。「-로라」の「-로-」は先語末語尾「-오-」の異なった形態(専門用語では異形態(allomorph)と言います。)に過ぎないからです。ところで、「-로라」が「-오라」と同じであるならば、「-로라」は「-노라」と同じ部類の語尾となります。「-노라(<-느-+-오라)」は現在時制を示す「-느-」に「-오라」が結合して形成された形式です。国語では「-느-」は動詞の語幹の後にだけ現れ、形容詞や叙述格助詞の語幹の後には現れることができないという制約があり、「-노라」は動詞語幹の後にだけあらわれます。
 先語末語尾「-느-」と共存することができない叙述格助詞「이다」や形容詞「아니다」(「아니다」は起源的に名詞「아니」に叙述格助詞「이다」が結合して形成された形式です。)の後には「-느-」が落ちた「-오라」だけが現れますが、このとき「-오-」は「-로-」に変わります。このように叙述格助詞の後で「」が追加される現象はその他にもあります。連結語尾「-아서/어서」が叙述格助詞の後で「-라서」に変わるのがちょうどそれです(「그것이 나의 잘못이라서(잘못이어서) 어쩔 도리가 없었다. それは私の過ちだから仕方がない。」)。「-노라」と「-로라」が使われる例には「각 분야에서 내로라 하는 사람들이 모였다. / 모두들 자기 책임이 아니로라 우기기만 한다. 各分野でわれこそはと思う人々が集まった。/みなが自分の責任ではないと言い張るだけだ。」や「떨어져 나가 앉은 산 위에서 나는 그대의 이름을 부르노라. 一人はなれて座った山の上から私は君の名を呼ぶのだ。」などがあります。

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